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2009年06月29日
「魔法遣いに大切なこと 夏のソラ」
なんだか今更思い出してDVDとか欲しくなっちゃってる件。
見てた当時は変なアニメだなあと思っていた。
主人公が下宿してるのは下北沢だし、
(ところでシモキタは会社から近いわりに、どうも「テレビの中の町」というイメージが強い。ああイナカモノだとも)
メガネ君がツンデレちゃんをデートに連れて行くのは中野ブロードウェイで、
建築物としての価値をひとくさり講釈するし、
研修所のセンセイには掟ポルシェが居るし、
劇中に登場するストリートミュージシャンのお姉さんは「9月の海はクラゲの海」(ムーンライダース)とか楽しそうに歌ってるし。
(いや、いい曲だよ?深夜アニメの選曲としてどーよ、って話だけで)
などなど、作品のそこかしこにサブカル成分が満ち満ちている(笑)。
会社でちょっと実写のほうが話題になったにせよ、
何で今更急速に刺さってるのかは俺自身わからないんだが、
とりあえずOP歌ってたTHYMEのアルバムと、
前出ストリートミュージシャンのお姉さんことYASUKO(=micc)の劇中歌集を購入。
今のところ、miccのあっさりさっぱり感のほうが好感持てる。
それこそ相沢友子みたいな歌い方だと思ったりして。
しかし、この間見たつもりのHPがどこかに消えている(笑)。
THYMEはアルバム全体の印象としては、矢井田瞳とDoAsInfinityを足して、なにがしかデカイ素数で割った余りみたいな印象。
若干"Fly Away"はまぐれ当たりだったんじゃないかって言う(笑)。
アニメ作品自体は、近所のレンタル屋にあったらとりあえず見るかな。
投稿者 ushila : 00:20 | コメント (2) | トラックバック
映画「重力ピエロ」を見てきた。
企画と脚本が相沢友子なので見てみた。
もうけっこう前だけど。
渡部篤郎と吉高由里子の芝居の飛び道具ぶりが見所。
しかし、こういう話か。
なんつーか、実にブンガクだね。いろんな意味で。
投稿者 ushila : 00:10 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月17日
神は天にしろしめす、すべて世はこともなし。
みだりに神の名を口にすることなかれ。だそうだが。
もちろんあいつは神ではなく、紛れもない人間なんだが。
東スポを開いたら、DDTが花やしきで試合してた。
高木三四郎が乗用パンダで対戦相手を轢いてた。
これもプロレス。最高だぜバカヤロウども。
今日も世界は平和なようだ。
思っていたよりも。
投稿者 ushila : 23:17 | コメント (0) | トラックバック
まだ通常営業にならない。
当たり前か。
三沢がいなくなったことを受け入れるための理屈がいくつあったって、
そこにわだかまる自分の気持ちに決着をつけるための言葉など、見つけられようはずもない。
とにかく、三沢光晴という人について、まだ考えている。
結局あの人は、稀代の「意地っ張り」だった、という表現が、今のところ一番しっくり来ている。
馬場さんのプロレス観にも、鶴田の底なしの強さにも、川田のジェラシーにも、
小橋のケレンのないプロレス小僧ぶりにも、ハンセンやゴディの苛烈さにも。
あるいは、ファンの期待する自分にも、自分の限界のようなものにも、
あの人は負けたくなかったのだ。
俺たちは、その稀代の意地っ張りと同じ時を過ごした。
その意地を通して、あの人は去っていった。
そして。
三沢がいなくなっても、世界は無くならなかった。当たり前だ。
「三沢光晴がいた世界」があるだけだった。
世界は何かのために、あるいは何かによって存在しているのではなく、ただそこにある。
人は何かを為すために生まれてくるのではなく、ただ何かを為して死んでいく。
その善悪にかかわらず。だ。
三沢。
俺も、あんたたちがいたことぐらい、語り継いでいいかな。
投稿者 ushila : 23:15 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月16日
アキトシお前じゃない。
人間としてそういう気分になるのはわかるが、
お前に三沢を「殺す」ことなどできるものか。
三沢光晴を死なせてしまったのは、もっと大きな流れのようなものだ。
三沢はその大きな流れの中で、決して大きいとはいえない体を張って戦ったのだ。
その存在を打ち砕いた最後の一滴が自らの責任を云々することは、
最初の一滴がどこにあったのかを探すことと等しく意味がない。
かつて三沢光晴と呼ばれたもののかけらを「十字架」と呼ぶならば。
それは磔の十字架ではなく、我々の手の中に等しくあるはずの祈りのロザリオだ。
そして、それは同時に、我々にとってあらゆる意味で大切な記憶でもある。
お前ひとりが背負うなんて、傲慢も大概にしてくれ。
あんたも俺たちも、等しく三沢光晴を失ったんだよ。
投稿者 ushila : 21:16 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月14日
三沢光晴でも死んじゃうんだ。
どれだけボロボロでもリングに上がってた三沢光晴でも、
地方興行の1試合で死んでしまうのだ。
諸行無常とでも言いたいのか。馬鹿野郎。
なあ三沢。
あんたもう少しずるくても、欲深くても良かったんじゃないのか。
あんたを支えてたのは何だった?
あんた、何になりたかった?
あんた、プロレス好きだったか?
俺には何ができる? 忘れないこと以外に。
投稿者 ushila : 00:22 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月04日
民主主義と人権と近代的自我というフィクション
予告どおり、デンパ多めでお届けします。
法律というのは、基本的に「こういうことにしておけば世の中がうまく行きそうだ」というフィクションの寄せ集めだ、って話は、以前にもしたと思う。
(そこには基本的に『実験』ができない、社会科学の特徴が反映されていると思うんだけどね)
では、近現代において法規範の根幹になっている「人権」……人間は生まれながらにして侵すべからざる平等の権利を持っており、いかなる理由においても差別されない……という概念はどうか?
結論から言うと、これはこれでフィクションなんだ、とは、思うわけだ。
何のために必要なフィクションだったかと言えば、主に『国家』または『国権』と言うものを、超人間的存在に拠らずに定義づけるために必要なものだったのだろうと。
つまり、「人権」が発見されたから「民主主義」が生まれたわけではなく、「民主主義」というフィクションを実現させるために「人権」と言う考え方が必要だったのだと、俺は考えている。
(だから、人権と言うものは発見されたものではなく、発明されたものに近い)
少なくとも当時、さらにヨーロッパと言う場所においては、規範の中心・権力の源は『超人間的存在』、すなわち、キリスト教における『神』であった。
実際問題、国家と言うのは前述の『装置』として機能している限り、その権力の源が何であろうと問題にはならないと思うのだが、当時のヨーロッパにおいては超人間的存在を権力の中心にすえるやり方に不具合が生じていたとともに、キリスト教自体が動揺していた時代でもあった。と。
(経済学的見地からは、ここに生産規模の拡大による商圏の拡大という要素を加えることもできる。
ついでに、アメリカで国政選挙のつど、妊娠中絶の是非が取り沙汰されるのは、あの国が今でもカソリック的倫理観に支えられている証左なのだと思う)
で、そんな成立経緯を辿っている性質上、『基本的人権』には、3つの要素が必要だった。
すなわち。
人間に原始的に備わっているということ。
外的要因による「付け外し」ができないこと。
人間である以上、平等であること。
……さて。
俺が近代的自我ってヤツは嘘っぱちなんじゃないか、と思ってしまったりする根拠は、要するにここにある。
自由と平等を根拠とする人権思想は、特定の時代の特定の場所に必要だった思想、と言うことができる(あくまで、ある視点において、だが)。
しかし、人権思想がそれ自体として完結するためには、(前述したとおり)付け外しができてはいけなかった。
だから、権利の行使に(差別や障害などの)阻害要因がある人間にはその行使を補助する制度が必要であったし、他人の権利を侵害した者(=犯罪加害者など)であるからと言って、当然それを全面的に取り上げることは、思想になじまなかった。
拷問(による自白の強要)や残虐刑の禁止、心神喪失(耗弱)を理由にする刑の減免は、そうした思想的・文化的「井戸」から生まれている。
で、それら=西洋的近代社会の枠組みから生まれる副次的要素を受容する態度こそ、結局『近代的自我』と呼ばれるものなのだと思う。
で。だ。実際には。
拷問や差別は先進国においても消えたわけではないし、
今でも宗教裁判が行われ、投石刑などが行われている国や地域もある。
唯物史観においては資本主義社会の先にあったはずの共産主義国家では、「民主的独裁」の頂点にいるはずの人物が旧時代の王のように振舞う事例も枚挙に暇がない。
(ついでに言えば一応近代国家らしく「実力」を国権の元に集約しているから、民衆には事実上革命の権利もないという……)
この国においても、特にニュースバリューの大きい事件においては、加害者に対する残酷刑の復活を望む声や、情報隠蔽に対する反発の声が多く上がる。
つまり、現代においても、『近代的自我』はコモンセンスを占めるに至っていないのだと思わざるを得ないのだ。
……むふー(鼻息)。
で。だよ。
こういう文章を書いていると、国家論や法制度論は『現代』と言う時代に即した枠組みに脱皮するべきなんじゃねえの、とも思う。
で、そのときに「人権」の概念を回避して、『国家は利害の調整のために存在する装置なので、そのために必要なことしかやらない』と言う風に考えられないかと思うんだけど、どうもうまくいかん。
やりすぎかどうかを判定する仕組みが成立しないんだな。
で、制度によるコントロールが失われた、マッドマックス的鋲つきベスト着てヒャッハーの世界か、逆にコントロールが行き過ぎたディスティニープラン的な世界しか想像つかないんだが、想像力足らないのかね?俺。
投稿者 ushila : 20:39 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月02日
最近の篠原美也子がズルイ。
もともと同じ題材や単語を何度も詞に書く人ではあるのだが。
最近の作品(「種と果実」以降の円熟期)においては、過去作を完全に「過去の自分」として切り離した上で、そこに向かって「今の自分」からメッセージを送るという手法に昇華している。
「誰のようでもなく」と叫んだ自分も、「心のゆくえ」を追いかけた自分も、彼女にとっては自分の一部であるのと同時に、もはや慈しむべき他者なんだろう。
その慈しみは、多分彼女にそそのかされて(笑)うっかり「風の行方」を追いかける「川を渡る背中」になっちゃって、「極楽駅から見える月」を眺める「前夜~Heavy Night~」を過ごす「ワザリング・ハイツ」から脱け出してない「葉桜」(たとえば、俺のような)にも多分向けられていて、だからこそ余計にぐっさり刺さっちゃうわけだが。
俺はここにもう少し踏みとどまって戦ってみるよ。
俺はあんたになれないし、誰もがあんたにならなきゃいけないわけでもない。でしょ?
投稿者 ushila : 19:17 | コメント (0) | トラックバック
いまさら"MARCHING MONSTER"が刺さり始めてきた。
新谷良子が歌手としてどうかというと、普通に上手い人、って感じなんだが。
(普通って言うな!)
どっちかっつうと、「バンビポップ」と銘打たれるコンセプト(概ね、言葉数の多い歌詞という特徴に集約されるらしい)が、現代のJ-POPにおける用語としての「音楽の強度」(=だいたい、音楽的要素(音数とか変調とか転調とか)の多さや伴奏音楽の音域の広さに集約される概念)を上げることに対して、親和性が高いって言うことなんだろう。
正味な話、このコンセプトでやりたいと思ったヤツと、それにゴーを出したヤツと、そのコンセプトをきちんと消化したヤツがそれぞれエライ。
……って、おいら近年こんなことばっかり言ってるな。Perfumeといい絶望少女達といい。
声優CDなんかただのノベルティソングの詰め合わせだろ、と思っていたのは、他ならぬちょっと前のワタクシめでございますし、ぶっちゃけどの世界でもそうであるように、やっつけ仕事は横行してるんだと思う。
でも、やっつけ仕事から突然変異する「瓢箪から駒」も、無駄な熱量を持って生み出される「シベリア超特急」も、「今」の音楽を聴く楽しみの一つだとは思うんだよね。