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2006年06月27日
ついでだ。
主にwikipediaで調べた、Jリーグの名外国人選手たちのその後。
まずは有名どころで。
「英国紳士」ゲーリー・リネカー
お国でサッカー番組のコメンテーターをなさっているそうです。
サルバトーレ"トト"スキラッチ
イタリア・パレルモでサッカースクール開設。
ドゥンガ
「市民能力開発のためのドゥンガ財団」代表。
アルシンド
引退。ブラジルで農業。
レオナルド
ACミラン副会長補佐。
ラモン・ディアス
オックスフォードの監督を辞めた(2005・4)までしか追いかけられませんでした。
ドラガン・ストイコビッチ
セルビア・モンテネグロ協会会長→レッドスター・ベオグラード会長
三都主の先輩たち。
呂比須ワグナー
ブラジルのクラブチームのアシスタントコーチ。
三渡州アデミール
レストラン「バナナシュート」オーナー。
個人的に好きな選手。
ハシェック
(現役当時、彼が13番を付けていたのが妙に印象に残ってて、勝手に「死神」って呼んでた。
たぶんキリスト教徒が、13つける心境ってどんなかな、と思って)
フランス・リーグ1チームの監督
マスロバル(一応、なんちゃって犬サポなので)
モンテネグロのサッカークラブオーナー
報知が代表監督にオシムなら、ストイコビッチがコーチになるだの、
オシムが2年やってその後はストイコビッチだの言うので、
それをきっかけに調べてみたんだけど、驚いたこともあるもので。
オルデネビッツ
ドイツ・3部リーグで現役(!!)
カレカ
2005年に1試合だけ現役復帰したところまでしか追いかけられませんでした。
ミューレル
Wikipediaにすら項目がないのはどういうことでしょうか。
投稿者 ushila : 01:34 | コメント (0) | トラックバック
ジーコジャパン、終戦。
ワールドカップ本戦に入ってからの、選手たちやジーコの発言には虚しいものがあった。
結局、このチームの最後のよりどころはフィジカルでもテクニックでも戦術でもなく、
「精神論」であった、ということなんだろう。
逆に言えば、「世界レベル」で戦うにおいて、信ずるに足りるものを身に付けていない、
あるいは身に付けられなかった、と言うことではないだろうか。
ジーコと言う人が、日本サッカーに残した足跡は間違いなく大きい。
世界の頂点で戦っていた人物のプレーを垣間見たことは、
多分日本サッカー史から消えることはないだろう。
しかし。
監督としてのジーコが何を残したのか。
俺はわからないままでいる。
「組織的守備」の対義語に「自由な攻撃」を据えたのは、あるいは欺瞞ではなかったか。
勝負どころで、熟成させた3バックではなく、信頼性のない4バックを採ったのは、
迷いや自己満足の結果ではなかったか。
決定力不足の正体は、実はプレスや展開力や連携の不足と言う、中盤の問題ではないのか。
なんでもいい。
いつか、「監督としてジーコが残したものはコレだったんだ」と、思わせてくれ。
それまでは、さらば、ジーコジャパン。
投稿者 ushila : 00:44 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月19日
ひとりハウンドドッグ。
何でこんなことになっちまったのかなあ。
「俺がハウンドドッグなんだ」と大友が言ったのは、もう20年も前のことになるのか。
曲も、言葉も、あんた一人でやるというのか、大友よ。
それは俺が知っているハウンドドッグでは、きっとない。
これまでの蓄積を、閉ざされたファンだけに向かって歌い続けるのか、大友よ。
それも俺が知っているハウンドドッグではない。
あんたが昔言った「俺がハウンドドッグなんだ」は、そんな意味じゃなかっただろう。
投稿者 ushila : 21:51 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月04日
モンテネグロ独立。
http://www.sankei.co.jp/news/060604/kok025.htm
すげえよなあ。
これでセルビア・モンテネグロ、ワールドカップの代表チームしかなくなっちゃったよ。
というわけで、偶蹄目はセルビア・モンテネグロ代表チームを応援します。
選手ミロシェビッチしかわかんないけど。
投稿者 ushila : 23:58 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月01日
国際親善試合 ドイツ-日本
「それではドイツの奥寺さんを呼んでみましょう。奥寺さーん」
出てきたのは奥寺健(フジテレビアナウンサー)
そうかめざましテレビか。
ドイツで奥寺と言えば、奥寺康彦じゃないのかよう。