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2005年12月26日

会社年賀状。

一応今日宛名印刷が完了したが、心情的には惨敗。

システム系の会社は異常に部署名が長くて嫌です。

(カタカナ)事業本部(カタカナ)事業部
(カタカナ)部(カタカナ)グループ

(カタカナ役職) 山 田  一 郎  様

みたいな。
うちの部署にあるツールじゃ、差し込めないッス。

投稿者 ushila : 23:43 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月23日

男三十代。

       発   オ   今

                日

       生   ヤ   の

                同

       し   ジ    期

                飲

       た   時   み

   牛            も

            空

   を
            が

投稿者 ushila : 00:38 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月18日

ふと思った。

        か   世   プ   ア

             間   ラ   キ

             的   ダ   バ

        な   に   の   系

             ど   紙   の

             う   袋   お

        あ   な   を   兄

             ん   提   ち

     牛      だ   げ   ゃ

             ろ   て   ん

     を       う   い   が

                 た

                 ら

投稿者 ushila : 10:36 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月11日

WASABI

先週末買ったIO DATAのRX-MVP/GX2Wで録ったのを、これまた先週末買ったiPodにぶち込んで観賞したわけですが。

iPodのバッテリーの頼りなさと、それなりにきれいな画質よりも。
(その前に見てた特効野郎Aチームとあわせれば3時間近く見ていたわけで、頑張ったで賞はあげられる)
広末涼子のあばずれ演技よりも。
(広末にも問題は大アリだが、監督がダメかもしれない)
製作連中の間違った日本観よりも。
(俺「グランブルー」好きなだけにダメージでかいよ。あんな弁護士事務所、依頼人が逃げ出すわい)

スタッフロールを見るまで広末本人だと信じて疑わなかったアフレコが、坂本真綾だったのにしこたま驚きました。
見事なヒロスエぶりです。戦術理解度の高さがうかがい知れます。


すみません。これ以上オチありません。

投稿者 ushila : 02:35 | コメント (0) | トラックバック

サッカーねた2発。

琉球FC JFL昇格。

めでたい。本当にめでたい。心からめでたい。
ここまで言うとウソくさいですかそうですか。

考えてみれば、かりゆしFCが吸収リーグにいるのもこの人たちのおかげなワケで。
ある意味では、彼らはやっと正当な評価を勝ち得た、と言ってしまっていいような気がする。
藤吉はおろか、気がつけば永井までいるのにはしこたまぶったまげたが。
ついでに冷水をぶっかけるようなことを言えば、かりゆしと喧嘩別れした理由は遠征先での待遇だったわけで、明確なタニマチのいないチームでどどこまで厳しい遠征に堪えられるか否か甚だ心配なわけではあるが。

すみません。皮肉が過ぎました。

「ちゃーしん負きららん戦」は、これからも続く。
俺はもう一度、琉球FCのウィットネスになろうと思う。


柏レイソル J2降格。
ダブルハットトリックなんて、キャプテン翼でしか成立しないもんだと思ってました。
早野監督、ラモス、明神とインタビューを見るに付け。
アレですよ。
気持ちの差とか、サポーターに申し訳ないとか、いろいろ言うわけですが。

もっと正直になれと。
悔しくないのか。いや、むしろ、悔しいだろう。

もっと謙虚になれと。
気持ちの差でダブルハットを食らうのかと。
弱いから負けたんだよ。強けりゃ勝つんだよ。
結果論と笑わば笑え。それ以上何があるものか。

10何年前、ベルマーレに先を越されて血涙を流したお前らの姿を俺は忘れてないぞ。

これでむしろ、強いレイソルが戻ってくるための通過儀礼は済んだ。

これで自由になったのだ。

投稿者 ushila : 02:35 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月09日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(7)オタクと記号4

価値と権威をめぐるダブルスタンダード の続き。

実際には、オタクコロニー(オタク内世間)を他の集団に置き換えれば、ふたつめと三つめは実はいくらでも一般化できる話である。


端的に言えば、(ここ大事)オタク内世間にも、善悪や好悪の基準も、ヒエラルキーも競争もあるのだ。


一般人がヴィトンのバッグや一戸建ての家やベンツを欲しがり、出世のためにダンナのケツをひっぱたくように、オタクはデンドロビウムのプラモや限定フィギュアや同人誌に群がり、MMORPGのキャラのレベル上げのために徹夜するのである。
(この辺は前にも書いたな。モノ語り自体もうちょっと掘り下げて書いてもいいと一瞬思ったが、現代社会がどうのこうの言う実りのない文章になるのが目に見えるようだ)

別の例だって山ほどある。
たとえ話は泥沼にはまるのでやめるとするが。

で、結局のところ、オタクを特徴づけているのは、記号に対する反応がデジタルである、ということに尽きるように思う。

目の前に大好きなエサがあれば簡単にネコまっしぐらになって食べあさるし、エサをくれる飼い主を神と崇める。
ついでに、そのエサを食べ飽きれば「ネコまたぎ」さながらの反応を見せる。

嫌いなものは加減も躊躇もなく叩くし、それに関連するものも疑いなく、例外なく、徹底して嫌悪する。

そういう自らの行動原理を容認するものは賞賛し、批判に対しては場のコードを転換して身を交わそうとする。

そういう、なつかしの「クリィミーマミ」の主題歌Aメロのような価値判断こそ、実はオタクの本質なのではないか、と愚考するのである。

だからジャニヲタはモーヲタを嫌悪し、モーヲタはビジュアルバンドファンを叩き、格ヲタとプヲタはいがみ合い、ノアヲタと塩日ヲタや、ファースト原理主義者と種ヲタは不毛な内ゲバを繰り返すのである。
(ちょっと前なら新日本プロレス~UWF周りの離合集散劇が、それはそれは面白かった)

冷静に考えてみれば、これはそのまんま過激派の内ゲバの構図だし、オタクがサブカルの一派である以上、サブカルの行動原理がもともとそういうものを内包しているのは間違いないので、当たり前といえば当たり前なのであるが。


ちょうど今日発売のスペリオールに掲載されている「ラーメン発見伝」のエピソードがそのあたりのを活写していて面白いので、ご一読あれ。


さて、2回前に「残り2回」と言ったが、読んでいただいてわかるとおり、まだ「萌え」の分析に入れていません。

次回何とか1回分で終わらせるつもりの善光寺さんなんですが、はてさてどうなることやら(アバンティ風)。

投稿者 ushila : 22:31 | コメント (0) | トラックバック

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(6)オタクと記号3

価値と権威をめぐるダブルスタンダード

オタクは、世間の評価に価値を求めないが、それに対して鈍感なわけではない。
世間の批判を、コードや情況の置き換えで避けようとする反応が常態化しているだけだ。

あなたの考えではそうかもしれませんが、とか、
僕はただ楽しみたいだけです、とか、
関係ない、とか。
オタクがオタク同士のコロニーを作るのも要するにそういうこと=防御不能の正論で自らを攻撃する人間から距離をとる方法論の帰結なのである。

それが本当の意味で反社会的な方に行ってしまうと、いささか困ったことになるが。

さて。そろそろ表題の話に入る。
この話をするにあたって考えたのは、ずばり「2ちゃんねる」に代表されるネットコミュニティの行動様式である。
特に「祭り」と「神」について主に考えた。

これについて着目した点は二つある。
ひとつは、社会とのリンクがあるところで祭りが発生するという現象である。
ちょっと古い話になるが、広島の原爆記念碑に飾られた折り鶴が燃やされる、と言う事件があった。
このとき、2ちゃんねる周辺で、鶴を折って広島に届けよう、的な動きがあった。
たしか、元々あったよりもたくさんの鶴が届いたんじゃなかったかな。

それ自体全く非難すべき事ではないが、ここにはサジェスチョンが隠されている。
オタクは世間一般の基準において「よい」とされることを集団で行うことがあるということを、ここでは記憶に留めておきたい。

本人たちは祭りと位置づけられることをよしとしないが、いわゆる「のまネコ」問題も、典型的である。
こちらはむしろ逆に、悪を糾弾する、という構造が基本に与えられたことで活気づいた。
所属アーティストの盗作疑惑とか、浜崎のエンブレムをインスパイヤしたアレとか、正直ヤリスギだと思う部分も多々あるが。

何れのケースでも、世間一般の価値基準とズレのないところで善悪を判断している点が共通している。
ついでにいえば、肉体的にあまりツライ目にあわなそうなところも共通かもしれない。

オタクが全く世間的な善悪の基準に価値を見いだしていないならば、こういう現象は発生しないだろう。

二つめは、祭りが発達する過程における参加者の関わり方と、「神」認定を受けたものの行動原理である。
だいたいにおいて、祭りの中心には担がれる御輿(ターゲットとかネタとかニュースとか)があり、それについて本気で何とかしようとする人や、純粋に祭りを発生させて楽しむ人がいる。
一番外側には見物人や記念カキコの人がいて、その間にはうっかり釣られちゃった人やら、御輿の周りの人に賛同する人が、その濃さに応じて同心円状に分布している。

中心に近い人はわりとピュアに、立候補式の役割分担に沿って行動していたりして、俺としては感心する一方、プロのアジテーターが紛れ込んでるんじゃないかと心配になるのだが。

問題は、と言うか、面白いのは、というか、見物人に近づくほど、今度は「祭りの目的」よりも、「祭りに参加すること(したこと)」に意義を見いだす傾向が強い、ということだ。
ようするに、祭りに参加すると言うことが、あとで自分を権威あるものとして異化する記号(すなわち自慢の種)になることを見越して、祭りの行列に加わるのだ。

いや、現実においても祭り、てーのはそんなもんなんだろうけどな。
いわゆる期待族なんか典型だろう。
もっと一般層に引き寄せれば、二人だけの記念日を作ろうと言いつつ、クリスマスや正月に人でごった返す場所に繰り出すカップルの行動などが挙げられる。
12月も中旬になりますねえ、みなさん準備は万端ですか?
・・・寂しくねえぞ畜生w

「神」の発生過程と、その行動原理については、自分たちにとって有利な行動をとった人間を単純に神と呼ぶ人たちと、神たらんとし続ける人がいると言うことだけで、構造はさらに単純である。

この二つの行動原理から見えてくるものは何か。
あえてこれ以上の論証はしないが、オタクの記号に対するスタンスには3つの特徴があることがわかる。
ひとつは、記号に対してきわめてデジタルに反応すると言うこと。
ふたつめは、(巷間指摘されているところと重なる部分があるが)世間的価値観よりもオタクコロニー内部の価値基準を重視すること。
三つめは、オタクコロニーへの同化の指向と、オタクコロニー内部での異化の指向の双方を持っていることである。

ちょっと大事なことを言いたいので、アーティクルを変える。

投稿者 ushila : 21:05 | コメント (0) | トラックバック

2005年12月02日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(5)オタクと記号2

「わかりやすい標準」の時代

おたくという記号の誕生と、オタクという記号の一般化について考えていたら、急に「カワイイ標準」という単語を思い出した。

たしか松浦亜弥を特集した「音楽誌が書かないJ-POP批評」あたりで読んだのだと思うが、事物の善し悪しをカワイイか否かで判断する、さらに進んで
良い、と判断したものは全てカワイイに分類する、言い換えれば、カワイイを最高位の概念に据えるという価値基準の話だったと、俺は理解している。

オタクとカワイイ標準という二つの指標を同時に見るにつけ、浮かんでくるここ20年ぐらいの日本人の行動原理とは何か。

ずばり、それは、「わかりやすい」標準、ということができないだろうか。

カワイイ、かっこいい、わかりやすいは善。
かわいくない、カッコ悪い、わかりにくいは悪。
ダサいのはおしゃれに気を使わないからだとか、スマートにできないのは頭が悪いんだとか、わかりにくい制度は一部の人が私腹を肥やすためだとか。

いささかトートロジー的になるが、こうした善悪の判断は「わかりやすい」のである。

さらに問題なのは、わかりやすいかわかりにくいかという基準は、どこまで行っても主観でしかないということだ。

多数派や権威づけられた人の発言は客観的だと見られることがあるが、あくまでもそれらは数や権威に守られているために、疑似的に客観性を帯びているに過ぎない。
(たとえば裁判という制度であっても、訓練と膨大な前例に裏打ちされていると言うだけで、どこまで行っても真の客観に至ることはできないと言うことは、裁判官自身も認めているところだ)

そうした自己を疑問視する視線を、わかりやすい標準は奪っているのではないか、と考えるわけである。

わかりにくいものは悪かもしれないが、その奥に「真実」のようなものを備えているかもしれない。
わかりやすいものは評価しやすいが、どこか胡散臭いにおいを発してはいないか。

事例なんていくらでもある。
行列のできてるラーメン屋に入ったら、大してうまくなかったりする。
安い商品を追い求めていたら、デパートもスーパーも下請け業者もばんばんつぶれ、多くの従業員が職を失った。
新基準、新基準と浮かれていたら、より勝ちにくいだけのパチンコ機だった。
悪の鈴木宗男をやっつけた正義の辻本清美は、秘書給与を流用していた。
小泉改革、郵政改革を旗印に選挙を大勝した小泉自民党が、年金・社会保険制度から外交まで、どれだけのゴマカシを行っているか。
(靖国については、信念に基づくならば堂々と参拝しろ、だし、説明を尽くせ、なのだが)

民主主義の原理は多数決ではない。
冷静な分析に基づく、徹底した議論だ。

さて。
話を戻す。
元来オタクとはネガティブな記号であることは、前項で述べた。
わかりやすい標準の思考において、ネガティブな記号はそれ以上の価値判断の対象にはならない。
外見や趣味属性において「オタク」または「オタク的」とされるものは、いわば世間の「ふつう」を自認する人々からは「なかったもの」として扱われるのであり、だからこそ「オタク的」趣味の持ち主はそれを隠そうとするし、語義どおりの「オタク」は、世間の評価に価値を求めない。
(ほめられると調子に乗るが(笑))


それはともかく。
現代において「大家」とか「巨人」とか称される文化史上の人物は、特に近世、必ずしも幸せな生涯を送ったわけではない。
もっと言えば、人格が優れているから後世に名を残したわけではない。
その他雑多なことを言えば、現代から文化史を見直せば主流と位置づけられるものも、当時最初から主流であったわけでは当然ないし、あの「神童」モーツァルトも、当時の流行歌やフォークロアを楽譜に書き起こし、アレンジを加えただけではないか、という説(早く言えば、パクリ説だ)が存在する。

彼らが歴史に名を残したのは、ひとえに「仕事」によるものだし、俺にしてみてもそれを貶めるつもりは毛頭ないのだが。
(ついでにいえば、特に中世以前、芸術家は貴族や資産家の「囲われ者」だったわけでブツブツ)

たとえば明治時代、功成り名を遂げた、綺羅星のごとき文豪たちを輩出したのは、その背後にいた星の数ほどの、文豪と呼ばれることのなかった「彼ら」であったのであろうし、ついでに言えば日本文学の隆盛の礎を語るにおいて、江戸時代に「読み本」や「黄表紙」と呼ばれる作品群によってすでに築かれていた出版文化を無視することは、言ってみれば建築物において屋根の造作だけ見ているようなものだ。

つまるところ何が言いたいかというと、オタク人口が200万人(コミック、アニメだけで40万人だと)といわれる(まあ、その中には創作者も消費者もいるわけだが)現代、その中から後世、文化史に確固たる位置を築いたと評される人物(集団)が現れても、おかしくも何ともない。

現に、単に視覚的表現という域に限って言えば、アニメ・漫画(ついでに広義のポップス)の表現は、そうバカにしたものではない。

サブカルチャーは、その中にさらにカウンター・カルチャーだの、オルタカルチャー(Alternative Culture)だのという分節を持っているが、現代においてそれらの役割を担うのは、実はオタク文化なのではないか、と愚考するしだいである。


さて。
もはやどこも記号論じゃないじゃないかと思ったあなた。正解。
次回はもうちょっと記号論っぽいことを言うかもしれません。

そして、このシリーズも残り2回。一応構想としては。
かつて「モーニング娘。に藤本美貴」シリーズで、10回構想が勢いあまって13回ぐらい(ぐらいって何だ)になったのは、公然の秘密。

何とか年内完結の方向で。

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