« メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(4)オタクと記号。その1 | メイン | メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(6)オタクと記号3 »

2005年12月02日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(5)オタクと記号2

「わかりやすい標準」の時代

おたくという記号の誕生と、オタクという記号の一般化について考えていたら、急に「カワイイ標準」という単語を思い出した。

たしか松浦亜弥を特集した「音楽誌が書かないJ-POP批評」あたりで読んだのだと思うが、事物の善し悪しをカワイイか否かで判断する、さらに進んで
良い、と判断したものは全てカワイイに分類する、言い換えれば、カワイイを最高位の概念に据えるという価値基準の話だったと、俺は理解している。

オタクとカワイイ標準という二つの指標を同時に見るにつけ、浮かんでくるここ20年ぐらいの日本人の行動原理とは何か。

ずばり、それは、「わかりやすい」標準、ということができないだろうか。

カワイイ、かっこいい、わかりやすいは善。
かわいくない、カッコ悪い、わかりにくいは悪。
ダサいのはおしゃれに気を使わないからだとか、スマートにできないのは頭が悪いんだとか、わかりにくい制度は一部の人が私腹を肥やすためだとか。

いささかトートロジー的になるが、こうした善悪の判断は「わかりやすい」のである。

さらに問題なのは、わかりやすいかわかりにくいかという基準は、どこまで行っても主観でしかないということだ。

多数派や権威づけられた人の発言は客観的だと見られることがあるが、あくまでもそれらは数や権威に守られているために、疑似的に客観性を帯びているに過ぎない。
(たとえば裁判という制度であっても、訓練と膨大な前例に裏打ちされていると言うだけで、どこまで行っても真の客観に至ることはできないと言うことは、裁判官自身も認めているところだ)

そうした自己を疑問視する視線を、わかりやすい標準は奪っているのではないか、と考えるわけである。

わかりにくいものは悪かもしれないが、その奥に「真実」のようなものを備えているかもしれない。
わかりやすいものは評価しやすいが、どこか胡散臭いにおいを発してはいないか。

事例なんていくらでもある。
行列のできてるラーメン屋に入ったら、大してうまくなかったりする。
安い商品を追い求めていたら、デパートもスーパーも下請け業者もばんばんつぶれ、多くの従業員が職を失った。
新基準、新基準と浮かれていたら、より勝ちにくいだけのパチンコ機だった。
悪の鈴木宗男をやっつけた正義の辻本清美は、秘書給与を流用していた。
小泉改革、郵政改革を旗印に選挙を大勝した小泉自民党が、年金・社会保険制度から外交まで、どれだけのゴマカシを行っているか。
(靖国については、信念に基づくならば堂々と参拝しろ、だし、説明を尽くせ、なのだが)

民主主義の原理は多数決ではない。
冷静な分析に基づく、徹底した議論だ。

さて。
話を戻す。
元来オタクとはネガティブな記号であることは、前項で述べた。
わかりやすい標準の思考において、ネガティブな記号はそれ以上の価値判断の対象にはならない。
外見や趣味属性において「オタク」または「オタク的」とされるものは、いわば世間の「ふつう」を自認する人々からは「なかったもの」として扱われるのであり、だからこそ「オタク的」趣味の持ち主はそれを隠そうとするし、語義どおりの「オタク」は、世間の評価に価値を求めない。
(ほめられると調子に乗るが(笑))


それはともかく。
現代において「大家」とか「巨人」とか称される文化史上の人物は、特に近世、必ずしも幸せな生涯を送ったわけではない。
もっと言えば、人格が優れているから後世に名を残したわけではない。
その他雑多なことを言えば、現代から文化史を見直せば主流と位置づけられるものも、当時最初から主流であったわけでは当然ないし、あの「神童」モーツァルトも、当時の流行歌やフォークロアを楽譜に書き起こし、アレンジを加えただけではないか、という説(早く言えば、パクリ説だ)が存在する。

彼らが歴史に名を残したのは、ひとえに「仕事」によるものだし、俺にしてみてもそれを貶めるつもりは毛頭ないのだが。
(ついでにいえば、特に中世以前、芸術家は貴族や資産家の「囲われ者」だったわけでブツブツ)

たとえば明治時代、功成り名を遂げた、綺羅星のごとき文豪たちを輩出したのは、その背後にいた星の数ほどの、文豪と呼ばれることのなかった「彼ら」であったのであろうし、ついでに言えば日本文学の隆盛の礎を語るにおいて、江戸時代に「読み本」や「黄表紙」と呼ばれる作品群によってすでに築かれていた出版文化を無視することは、言ってみれば建築物において屋根の造作だけ見ているようなものだ。

つまるところ何が言いたいかというと、オタク人口が200万人(コミック、アニメだけで40万人だと)といわれる(まあ、その中には創作者も消費者もいるわけだが)現代、その中から後世、文化史に確固たる位置を築いたと評される人物(集団)が現れても、おかしくも何ともない。

現に、単に視覚的表現という域に限って言えば、アニメ・漫画(ついでに広義のポップス)の表現は、そうバカにしたものではない。

サブカルチャーは、その中にさらにカウンター・カルチャーだの、オルタカルチャー(Alternative Culture)だのという分節を持っているが、現代においてそれらの役割を担うのは、実はオタク文化なのではないか、と愚考するしだいである。


さて。
もはやどこも記号論じゃないじゃないかと思ったあなた。正解。
次回はもうちょっと記号論っぽいことを言うかもしれません。

そして、このシリーズも残り2回。一応構想としては。
かつて「モーニング娘。に藤本美貴」シリーズで、10回構想が勢いあまって13回ぐらい(ぐらいって何だ)になったのは、公然の秘密。

何とか年内完結の方向で。

投稿者 ushila : 2005年12月02日 01:00

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.torihan.com/mt/mt-tb.cgi/424

コメント

コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)