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2006年12月15日

想像力の問題ではないとしたら。

もうちょっと厳しい言葉を選ばなければならないのかもしれない。

いつまで経っても無くならないいじめ問題。

それぞれの理由があるのだろう。

しかし。

個人のモラルや道徳や常識、あるいはセンスといったものが、この問題を解決する拠り所となると言う考え方自体が、もしかしたらものすごく甘いんじゃないか、と、考えざるを得ないのである。

法学用語として「規範」という言葉を用いる場合(あるいは、広義に「法」と言った場合)、そこには道徳や倫理といったものから、憲法や実体法、各種手続法(訴訟法など)までのすべてが包含されている。

理論上は、とか、観念上は、と前置きすべきなのかもしれないが、本来、道徳や倫理と法律は、地続きのものなのである。
(英米法系の国では、よりその傾向は強い)

だから。
道徳や倫理で全ての問題が解決できるならば、法律(成文法)は、元来必要の無いものである、と言うことができる。

しかし、実際には。
道徳や倫理は、きわめて観念的なものである場合が多い。
あるいは内容が明確なものであるとしても、それに反した場合の被害の救済方法、行為者へのサンクションについては、適用の基準や手段、範囲が曖昧である。
だから人間は、倫理を人に遵守させる様々な方法を考案した。

倫理に背いた者がどのような目に遭うかを説いた伝承や神話。
倫理は神が定めたものであるとする宗教の教義。
主に禁止事項を明文化した掟。

そして、
義務・権利・禁止事項、違反行為に対する罰則と救済措置、
さらにその違反行為を速やかに発見する制度と、措置の適用手続き、
そしてそれを運用する人間の権限
(実はこれも義務と権利と禁止事項からなる)、
さらにはそれら全ての創設方法を定めた、法律というシステム。

これらは全て、倫理を母胎として、倫理を補強するために産み出されたものである。と、言い切れる。

逆説的に言えば、倫理とは人間の行動の全てを規定しうる大きな存在であるが、補強されるべき脆弱な存在でもあるのだ。
「法律は正義の影だ」と、漫画ハンサムウーマンの主人公、眞行寺麻沙美は言ったが、法律のあるべき姿を喝破した、けだし名言だと思うのである。

さて。
特に近代の法律制度の特色は何か。
まず、自らの創設の方法を、神話や伝説というブラックボックスから引きずり出し、明文化してしまったこと。
(中近世以前の君主制度では、君主が定めた、という以上の根拠付けは存在しないので、ブラックボックスから脱却できていないし、時として倫理との連続性も失われている。
 現代に於いても、密室というブラックボックスに引き籠ってしまう困った傾向は洗い去れてはいないのだが……)

次に、全ての人間に、
 ・してもよいこと(権利)
 ・してはならないこと(禁止事項、または不作為義務)
 ・しなければならないこと(義務、または作為義務)
を割り振り、人間の行動を3つに類型化したこと。

特に、法律を取り扱う側の人間にも、同じように権利と義務と禁止事項を定義したことの意義は大きいと、俺は考えている。
権限という言葉は、文字どおり「権力に限りがある」ことを指し示す。
逆に言えば、どんな権力者であっても法律制度という枠組の中にいる限り、無限の権力を所有していることはあり得ないのである。

一方、法律制度の枠の外にいる(もしくは、自らをそう定義づける)権力者や「権威」は、時として無限の権力を振るうことがある。

マスコミは思想と良心に基づいて、猟奇事件の犯人の過去や周囲を徹底的に調べ挙げ、いかに異常な人間であるかを白日の下に晒す。

いわゆる暴力組織は、信条や義理、時にはメンツやプライドのようなもののために、刃物や拳銃、角材や火炎瓶を振るい、敵対する者を傷つけ、時には殺害し、あるいは何の関係もない者に流れ弾を命中させる。

(つづく)

投稿者 ushila : 2006年12月15日 22:26

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