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2006年12月15日

Winny判決。

そのものについては、判決文を見ていないから今すぐコメントはしない。

西村博之氏(ひろゆき)のコメントが、日刊スポーツのサイトで紹介されていた。

この手の問題を語るときに、包丁やスピード違反にたとえる論法は、わかりやすくってもっともらしいんだろうなあ、とは思う。

同じ批判を繰り返すのは好きじゃないが、同じ理屈にいつまでもしがみつかれていると、浅薄なのか擬まんなのかと勘ぐりたくなる。
(たぶん、正解はまた別)

速度規制は、通行の安全を期するために行われているものだ。
一定の条件下において定められた速度以下で通行することは、不測の事態に対応する上で効果的であり、もって交通事故を未然に防げますよ、という規定である。

一方、著作権法は、基本的に著作者という個人の権利について定めた法律である。
言ってみれば、「権利」という見えない身体の大きさを定めたものだ。

その被害の程度が、ドアがぶつかった程度なのか、大型トラックにはねとばされた程度なのかはわからないが、既に事故が発生している状態を想定した方が、今起きている状況に近い。

最初に反論した人間に言葉足らずの部分があったにせよ、スピード違反と権利侵害を「法令遵守」という同じくくりの問題として語る論法自体、最初から無理がある。
簡単に言えば、事故の程度も被害者の怪我の状態も、さらに被害者がどんな人かもわからない状況で、加害者が何も言わずに、または被害者をなじるような言葉を投げつけて立ち去ったときに、それを見ていた第三者が常に被害者に対して「しょうがないよ」とか、「あんたが悪いよ」と言うことが、果たして根源的な道徳や倫理に遡っても、「正しい」ことと言えるのだろうか。

一方。
Winny=包丁という論理についても、やっぱり俺は納得がいかない。
Winnyが開発された当時、先行するP2Pファイル交換ソフトが、実態として著作権侵害の温床になっていたことは厳然たる事実だ。
ぶっちゃけ、gnutellaでプライベートビデオを交換しよう、という話は、俺は聞いたことがない。
実際にそこで流れていたファイル数の比率も、まあ似たようなもんだろう。

その状況において、「より匿名性の高いファイル交換ソフト」とやらを開発すればどうなるか。
少なくとも被告にはその結果を予見するに十分な知識があったし、あるいはその結果を企図した、という見方を差し挟む余地は、十分にあると考える。
被告本人はDL専用にカスタマイズされたクライアントを使用していた、という話も、この視点を補強するに足りると思う。
検察が起訴事実として「著作権制度の崩壊を企図」云々と本当に言ったのかは別として、自らの何らかの利益を企図する目的は在ったんだろうし、そういう意味では、利用者との間には、文字通りの「共同成犯」関係があったのだろう。

ユーザー側も十徳ナイフを買うぐらいの気軽さで使ってみたのかもしれないが、一応、包丁としても使える人斬り包丁、というのが、やっぱりWinnyの正体なんではないだろうか。


……。
ここまで考えて、被告の記者会見の様子を伝える記事を読んだ。

またファイル交換ソフトの未来とP2P技術の未来が同一視されている。
別個独立とは言わないが、ファイル交換ソフトはP2P技術の一つの応用方法にすぎないにも関わらず、だ。

効果的にP2P技術の研究を行うにはファイル交換ソフトとして実験するのが、検証を効果的に行う上で有効と考えた、にせよ、
他の応用方法が考えつかなかった、にせよ。
比較論や択一論で考えるには、結果として発生した(または、発生すると予見された)損害の程度が膨大すぎるのではないだろうか。

どこまで行っても被告は、「犯人」以上の者ではないのだと、俺は考える。

確信犯か愉快犯か、はたまた全く別の何かなのか、までは知らないが。


最後に。
ここまでぶち上げると、「著作権なんか所詮フィクションだから」という反論が来ると思う。


そのとおりだ。
もっと上のレベルで、「法律はフィクションではない」とか、「社会科学は疑似科学ではない」と断言できる法律家に会ったことは無いし、仮に居たとしてもそいつは極め付きのロクデナシだと断言できる。

ある社会において何らかの問題が生じたときに、ある制度または法律が存在しないためだ、と推論することはできる。
また、その問題を解決するために一定の制度または法律を設けたときに、その効果を測定することはできるが、その制度を設けなかった場合にどうなったか、とか、その制度を廃止した場合にどうなるかということを、反証実験することは事実上不可能に等しい。

だから、社会科学は純粋科学たりえない。
(共産主義は崩壊した、と言われるが、実際「世界共産革命」とやらが成功したときに、どうなっていたかなど、誰にもわからない)

しかし。
純粋科学でないということが、くだらないということと果たして同義だろうか。

ついでに言えば、「ファイル共有に対して寛大な著作権制度」(と、ここではミクロに扱う)が成立したとき、それが今より良い社会をもたらす、と言うこと自体、あくまで仮説であり、フィクションに過ぎないということを、論者は認識しているのだろうか。

投稿者 ushila : 2006年12月15日 22:12

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コメント

この間、「Winny利用の著作権侵害行為は一晩で100億円相当」という新聞記事が出た。

俺としても結局どんな算定根拠でその数字が出たんだかさっぱりわからなかったのだが、
一方では
 ・民法は私的自治の原則を持っているので、
  無体・有体の別を問わず財産利用の対価は当事者間の
  交渉によって決定されるものであり、
  無許諾利用においてはその損害額は理論上確定できない。
  (そのため、相場だの「みなし損害」だのが基準になる)

 ・著作物の複製行為が一度行われると、
  その複製物がさらに別の複製物を生む。
  特にデジタル複製は複製元となんら違わない「データ」であり、
  理論上一回の複製行為の損害額は無限大になりえる。

という意見もあることを(俺がその意見に与するかどうかは別として)紹介しておく。

投稿者 ushila : 2006年12月15日 22:26

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