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2006年12月15日

想像力の問題でないとしたら。 の続き。

下のエントリーから読んでください。

かつて「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」と言った政治学者がいた。

この言葉に言う「権力」とは、もちろん公権力を指している。
だから、近現代社会制度の発展は、公権力に対する監視システムの構築・強化の歴史であったともいえる。
(もちろん、それでも時折、公権力は暴走する。アメリカとかブッシュとか金正日とかブッシュとか)

一方。
権力とは公権力のみに限らない。
一定の組織・社会が存在する場合、そこには必ず権力と権力者が存在すると考えて、ほぼ間違いはない。
そして、公権力と近現代社会がどのように関わってきたかを鑑みれば、組織体系が未熟であればあるほど、組織内の権力に対する監視体制も未熟であると考えて良いだろう。

いじめ問題などは、未熟な子供が、気に入らない相手が居るとか、ちょっとムシャクシャするという問題を、自らにそれを解決するための無限の権利があると思いこみ、未熟かつ独善的な判断と、稚拙かつ過剰な方法でそれを解決しようとする典型例ではないか。

そのほかにも、ワンマン社長、DVをする親、過剰なセキュリティ管理を試みるシステム管理者、「昔から決まってますから」の一言で不合理な規則を押しつける町内会長、などなど。
局所的な「権力の暴走」は、現在も常に発生している、と考えた方がよいだろう。
「権力」は一応、組織や社会における一定の決定権、というような意味合いがあるのだろうが、それが単純な「力」……最低限、二者間で作用する……物理的、観念的の別を問わず……となれば、なおさらである。


法律や制度による解決の危険性をあげつらうならば、制度の枠組みの外にある「力」が、常に過剰や不足や方法論の誤りと隣り合わせであるという、「危険な曖昧さ」についても、同じように警戒すべきではないのか?


つまり。
目の前に厳然として発生している倫理に反する事態に対し、それを解決するための法律が存在しているにも関わらず、

「解決は倫理に委ねるべきだ。
 法律は適用してはならない。」

と言うことは、もはや破綻した論理と言うより他無い。

適用基準が必要なら、さっさと作れ。
より良い規定が必要なら、今救える全ての被害者を救済してから、したり顔で議論すればよい。

なによりも、死んでしまった被害者がいる。
もっともらしい理屈で自分の責任を避けてる場合じゃないだろう。

あんたの倫理は。
おまえの正義は。
道徳は。良心は。思想は。信条は。
モラルもスジも道理も常識も確信も、全部まとめて持ってこい。


それは全部、本当に正しいのか?

投稿者 ushila : 2006年12月15日 22:28

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