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2010年09月15日

パラドキシカル

パラチノースとキシリトールとカルシウムとテトロドトキシンには一切関係ありません。

また、この記事は思う存分パラドックスを弄ぶだけのものです。
何らかの結論が出るとか、過度な期待はしないでください。
読むときは部屋と気持ちを明るくして、モニターから十分離れて読みやがれ。(某みなみけ三女風)

動画投稿サイト見てると二つだけ感心することがある。
所詮フリーライドが前提のシステムだから一切愛せないけど。

ひとつは遊び場としての面白さ。
アタマ取っちゃって、作りかけのものが出来上がる過程を目の当たりにしたら相当面白かろうな、とは思う。
もうひとつは、文化のアーカイブとしての存在意義。
変な話、俺はもはやおじいちゃんとしてしか知らないし、既に亡くなってたりする大先生の全盛期の映像とかが上がってたりするわけですよ。
著作権や隣接権は消滅してなくても、それはもはや商品としてのサイクルは終わっている文化遺産でしょうと。

実際問題としてコンテンツビジネスにはいろんな局面があって、岡本真夜のベストアルバムが上海万博のアレで小当たりしたり、バンドでこけた人がソロで小当たり出したり、大スターが亡くなると特需景気が起きたりはする。
まあだから、商品の寿命が終わっても蔵で塩漬けにしておく意味ってのはなくはないんですが。

著作権は許諾権だし、特に著作者人格権および一般的人格権は一身専属性が強い上に消滅しない権利だから、「意に反する」利用については権利者はノーと言える。
変な話、世間的に「幻の名演」とされる演奏や演技があったとして。
でも、その名演がアーティストにとってはどうしようもない悔恨や失敗にまみれていたり、今の自分の趣味とは全く異なるキャラや衣装で彩られていたり、変な話見えてはいけないもの(おパンツ様とか)が見えていたりした場合に、それを葬りたいと思うか、「あれも私なんですよね(苦笑)」で済ませるかは、これは本来アーティストの自由であり、権利だ。

だから仮にあの人があの時代の映像(羅列ネタにしたいぐらいたくさんあるぞ)を持ち出されてモニターを叩き割ったとしても、私は全く責めません。引きますが(笑)。
実例だって高尚なものからアレなものまである。

そういうことを考えると野放図に投稿や共有する行為を誉めることは、なおさらできにくい。にしても。

一方で著作権法は「著作者の権利の保護」をもって「文化の発展」を図る法律とされている。
あくまでレトリックのような気もするが、前者は手段で、後者は目的なんだと。
だから文化が著作者に隷従するような社会になってはいけないんだと。そういう議論も確かにある。
そんな時代がいつあったのか、私は知りませんが~。
いやまああのね、プロの作家と言われる人が全員アラブの石油王か小室哲哉か富樫義弘みたいな生活して全然破綻もなにもしなくて、しかもパッケージの値段はLDの時代とおんなじぐらいする世界とかがあったら、おかしいと思うよ?
まあしかし、マイケルもアラブの石油王に買われる世界ですよ。
セリーヌ・ディオンの安住の地はラスベガスのホテルの常時興行だったわけですよ。

このように自分の思い付きを自分自身に簡単に論破されちゃうんですが(苦笑)。
それでも冒頭に戻って、動画投稿サイトのメディアアーカイブとしての機能はなんとか文化の発展に寄与してほしい。

結果として、そりゃyoutubeやニコ動が新しいテレビ局になったり、新しいJASRACになるだけの未来かもしれないけど。
それはそれでいいんじゃないの?っていう。

まあ、このように立場を変えれば全然事情は違うんですよ。
だからパラドックスが生まれる。

ところでテトロドトキシンとアグネスタキオンって語感が似てるよね。
大正デモクラシーと灯台もと暗しぐらい。
あと、Coccoと歌ってるときのいきものがかりのボーカルぐらい。

投稿者 ushila : 2010年09月15日 20:16

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