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2006年05月29日

「鈴木祥子」(鈴木祥子)

「拡散、深化、逸脱と批評」

第一印象は、とにかくバラバラのアルバム。
過去の鈴木祥子の作品は、ある意味で「コンセプトアルバム」的側面を持っていたが、このアルバムについては、わりと前後関係とか、トータルイメージ云々よりも、いま表現したいことを詰め込んだ、というような印象を受ける。
だからこそ、彼女はこのアルバムに自分の名前を付けたのかもしれない。

鈴木祥子という人は、とにかく全方位的に自分を表現したい人なのだと、いつだか忘れたが、ある時点から考えている。
それはアルバムやコンサートの作りこみという「本業」の部分から、ラジオやエッセイ、インタビューという「余技」の部分まで。

それもきっと、「意図」の部分まで、明言しないと気が済まない、ある意味でパラノイア的な「表現欲求」が、彼女の中にはあるのだと思う。
言ってみれば彼女の(特に中期以降の)作品という「問題」には、彼女自身が他のソースで発信する「模範解答」があるのであって、その部分まで含めて楽しむことが、彼女の作品に触れるときの、俺の中のひとつのメソッドになっていた。

さて。
振り返って今作を考える。
言葉やメロディ、アレンジの部分、そして純粋な「歌唱法」の部分に関して言えば、間違いなく「鈴木祥子的世界」は、深化したのだと思う。
「何がしたいの?」や「忘却」あたりで、ある種放り出すような歌唱法を織り交ぜてみたり、
「LOVE/IDENTIFIED」で、明らかに「あえぎ声」を想起させるスキャットを交えてみたり。

ある意味では彼女がメジャーレーベルという「くびき」と決別して、やりたかったことはこういう表現=「深化」であり、「逸脱」-この場合、表現のための、意図的な-だったのかもしれない。


さて。では、純粋な「音」の部分についてはどうか。
好意的に解釈すれば、音数の少ない、わりとソリッドな音作りは、ライブ感を重視したとか、歌詞世界を表現するために選択された舞台装置である、ということが出来るのだと思う。
しかし。
残念ながら、かつての鈴木祥子に見る、音の隅々まで「意図」という血を通わせていた緻密さは、今作からは看取できない。
楽器の音そのもので、ときおり「水準」に達していない不満を感じるのもさることながら。
「愛の名前」の大さびでかすれる声も、「ラジオのように」で低めに書き直されたフレーズも、表現上の必然というよりは、消耗した声帯の限界を露呈するようで、ちょっと心にざらつきが残る。


我々が知っている、特に初期の鈴木祥子は、もうひとつ創作の外側にいる人たちの「作品」でもあったのだろうが、今作はある意味で「意欲作」てあるとともに、創作の現場に内在すべき「批評精神」の欠落を感じざるを得ない。
「メジャーレーベル」の役割は、そういうところにもあったのだと思うわけで。
それは必ずしも、すべて「商業主義」というレッテルで説明がつく性質のものではないのだと思うのである。

そもそも、あらゆる意味での音楽的クオリティーと、表現者の自由は、本当にトレードオフの関係なのか。
なんかそういうことを考えた。

もちろん、彼女の意図は、ぜんぜん違うところにあるということも十分にありえるわけだが。

投稿者 ushila : 2006年05月29日 22:05

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コメント

MP3はつくづくクリティカルリスニングに向かないですな。
ちゃんとしたステレオでCDかけるとぜんぜん印象が違ったり。

「風の扉」
懐かしいですね。
今見るとすげーラインナップのアルバムだと思います。
ほぼ全曲好きかもw

「愛はいつも」
多分この曲は自分自身にも言い聞かせてるんですよね。
俺の中では、「26-Dec.11th.1968」(橘いずみ)が、
なんとなくこの曲と対です。
26-DECの主人公が、その後「愛はいつも」にいたるみたいなストーリーが、
勝手に作り上げられていますw

投稿者 ぐうていもく : 2006年05月31日 21:08

鈴木祥子さんですか...『風の扉』ってアルバムは持ってるんだけどね。
『愛はいつも』って曲に惹かれて買ったのを覚えてる(笑)。

...時々、「鈴木彩子」と間違えてしまいそうになるのがアレですが(笑)。

投稿者 ガヲ@米子市 : 2006年05月30日 06:24

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