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2005年11月05日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(3)「モノ語り」の構造分析

ロラン・バルトに敬意を表しつつ、やや自虐多めの方向で。


記号の役割は、分節である、とは、先に述べた。
分節の働きには、異化と同化がある、とも、先に述べた。

論証をすっ飛ばしてしまう。
現代社会において人間がもっとも分節したいものは何か。

「自分」である。

少なくとも近現代的な自我の概念のある社会において、人間がもっとも分節したいものは、自分自身なのである。


そこで出てくる概念が、「モノ語り」だ。
モノ語りって何よ、という話がまず出てくるわけだが、概ね

モノに仮託して自分自身を語ろうとする行動様式

と定義することができる。

まだわかりにくいな。


要するに、
「○○のショップのオープン記念限定品を持ってるアタシってセレブー」とか、
「○○の限定フィギュアをゲットできる俺って勝ち組だよな」とか、
「やっぱドイツの車はネ、違うのヨ。」とか、
「今の小橋には萌えない」とか、
そのようなことを言って周囲と自分を異化したり、

「これジウ姫と同じピアスなのーーー(はぁと」とか、
「こないだぁー、ヒルズ族の人たちとぉー、合コンしてぇー☆」とか、
「俺、電車男、リアルタイムで見てたんだよなー(ニヤリ」とか、
「俺は法学者だから」とか、
そのようなことを言って、社会的にそれなりに価値を認められている集団や個人と同化しようとしたり、

概ねそのような行動様式が、広義にはモノ語り、と呼ばれるわけである。

例示が、バカ女>くされオタク>俺 という流れになっていることに気がついていただけると幸いです。


どっちかというと、同化作用のほうが多く使われるのかな。


いや、いいんだ。
本当にバーキンや限定フィギュアやポルシェの造形や機能に価値を見出しているのであれば。
(つーか俺、いつかは911に乗りたいと思ってるし)
子を持つ親や教師としてでなくても、自分の意見を言えるのであれば。
俺だって必ずしも、モノ語り的文脈だけでMGFに乗っているわけではない。
あれはあれで楽しい車なのだ。


問題は、モノ語りに使用される「モノ」の価値は普遍的なものではないし、モノ語りによって「同化」しようとする対象との「同化」は全く保証されていない、ということである。
もうちょっと有り体に言えば、ブリちゃんやタイガー・ウッズやホテイと同じ道具を使っていても、同じセンスや同じスキルを保証されるものではないし、また仮にそうであったとしても、その価値が普遍的に認められるわけではない、ということだ。


それでも、現代人はモノ語りをやめない。
要するに、ある特定の「モノ」や「属性」(萌え論における属性ではなく、原義の)を所有している自分たちと、そうでない人々の間に異化された---更に言えば、優越と劣後の---関係を定義しなければ、安心できないのである。
(本当はもうちょっと言いたいことがあるのだが、書いてみたら収拾がつかなくなったので大幅略。あとで別項にするかも)


そうした不安神経症的病理(と、思い切って言ってしまう)は、何もオタクのみの特性ではないということを、ここでの結論というか、これからの足場にしたい。

BGM ALBUMS:
"Golden Tears"(bonnie pink)
"真心COVERS"(V.A.)
"朝顔"(レミオロメン)

投稿者 ushila : 2005年11月05日 01:55

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