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2005年11月04日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論。インターミッション

記号論がなんでややこしいのか、おぼろげながらわかってきた。

言いだしっぺの一人であるところのソシュールは言語学者なのだが、現代の記号学は言語以外の現象も(人間が一定の意味内容を感得することができる限り)「記号」と捉えることを前提にしている。
その上で言語という記号が他の記号とどのように違うかを滔々と説明するのである。
(結論から言ってしまえば、言語は統辞=文法を持っているから、ほかの記号に比して複雑なことを表現できるので優秀だそうだ)

おかげで記号論は言語学なのか哲学なのか社会学なのかさっぱりわからない、もはや記号論は記号論であるとしか言いようが無い学問になっている、というのがひとつ。
(ちなみに、言いだしっぺのもう一人であるところのパースは、哲学者であり論理学者であり物理学者だそうだ。一応哲学をやった人にとっては、プラグマティズムの祖、と言ったほうが通りがいいかもしれない)


もうひとつは、記号論がその前提に「コード」という概念を置いていること。
ようするに、表面的には同じに見える記号を投げたにもかかわらず、情況によってその意味が変わってしまうということを、前提と言ういわば別次元に置いているのである。

たとえば、「ツマミない?」という問いかけが行われたとする。

これが、以下のそれぞれの情況において発せられていると仮定する。

1.問いかけを発した者が、右手にグラス、左手にビール瓶を持っている。
2.問いかけを発せられたものが、問いかけを発したものに「何かパソコンから音が出ないんですけど」と質問した答えとして返ってきている。
3.キャバクラで、いい感じに酔っ払ってネクタイを頭に巻いた親父が、目の前に乾きものがあるにもかかわらずホステスのお姉ちゃんに据わった目で問いかけている。

それぞれが意味するものは、
1.酒の肴はありませんか?
2.スピーカーの音量調節ツマミはありませんか?
3.乳首をつまませろ

である。
こうしたこと(=情況とかコードとか呼ばれる)を、あらかじめ外に括り出した上で展開しているということが理解できないと、記号論はまったくわからない。

そして。
一部たとえに品が無いのは、今私がすこしく酒(ささ)など召しているという情況のせいです、と言い訳した上で、実はこの文章自体が壮大なエクスキューズであるということを、ここに宣言しておいて、論を再開します。

投稿者 ushila : 2005年11月04日 23:35

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