« ふー。 | メイン | 映像ザ・モーニング娘。3 »

2005年04月28日

ローレライ&終戦のローレライ。

何をどのように語るべきか。
いずれにしても、メタ記号論的には、
ヲタクの喜ぶ記号を組み合わせた、と言う印象は払拭できないところである。

そこに横たわる問題は、組み合わせただけ、と言う安易に堕するか否か。それのみなのではないか。

このストーリーに用いられている記号は、太平洋戦争、原子爆弾、潜水艦、ナチスのトンデモ科学、やたら趣味的な格好の謎の美少女と、ざっとこんなところか。

これだけの記号の組み合わせで、ストーリープロットのようなものは出来上がってしまう。
というか、昨今のヲタクカルチャーを見ていると、なんでもかんでも「……と美少女」とくっつければ出来上がりという、うま味調味料的お手軽さを感じてならない。

西原理恵子によれば、かつて「戦車と私」なるロリヌード写真集があったそうだが(ホントかよ)、この手の方法論で「創作物」がベルトコンベア式に「大量生産」されている感を覚えるにつけ、釈然としないものが悶々と蟠るのである。

話がやや横道に逸れた。
大事なのは、記号の組み合わせは「器」に過ぎない、と言うことである。
そこに盛りつけられるべき中身、すなわち人間の姿、あるいは感情が存在しなければ、その作品は冒頭述べた安易に堕する。
人間の姿、感情が、すなわち登場人物のそれであるか、作者のそれであるか、あるいはその双方と考えるかは、意見の分かれるところではあるが。

さて。
では、本作においてそれら諸問題はどうだったか。
映画は残念ながら、中身において失敗した、と言わざるを得ない。
登場人物の現代的に過ぎる思考。
ヒロイン、パウラの内面を描ききるための「仕掛け」の不備。
小説において言葉が補完するものを映像に落とし込む方法論の欠如。
淘汰された人物の担う役割を残された
人物に投影する配慮の不足。
等々、指摘すべきものは多数ある。
(清永と木崎の犬死にぶりにとどめを刺すな。実際)

「あの店の味のカップラーメン」のような、食後感の乏しさを感じずにはおれなかったのである。


そして、映画・小説いずれにも言えることとしては。
エピローグが完全に蛇足。


さて。
ここからは完全に余談。

香椎由宇はパウラ・A・エブナーのビジュアルを想像する上での依代として非常にいい仕事をしていると思う。
パウラの内面表現については演出を含めた不備があると思うので、彼女ばかりを責めても仕方がない。
何つーか、映像作品として表現する上では、パウラの人間性は複雑すぎるのだよなあ。

内面に焦点を当てるのだとしたら、俺はあそこに鈴木杏あたり持ってくると面白かったのではないかと思うのだけどね。けっこう気合いの入った演技をしてくれるのではないかと。
ビジュアルは全然離れちゃうが。

ま、そんなところで。

投稿者 ushila : 2005年04月28日 23:18

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.torihan.com/mt/mt-tb.cgi/234

コメント

コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)