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2005年10月16日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論。(1)記号とは何か。


実はメタという単語の意味すらきちんとわかっていないわけだが(苦笑)。

萌えという単語そのものの定義の曖昧さについては、かなり前から忸怩たる思いがあって、だから俺自身あまり萌えという単語を使用しないで来たわけである。

で、その辺のもやもやを解消するために、なんかいいツールはないかと考えているところで、ぶち当たったのが記号論とか記号学とか言われる学問体系であった。
というのが、大体この文章の始まりである。

記号論で言うところの「記号」とは何か、というと、意味を持つ表象、という定義になるだろうか。
厳密に言うと、人間が意味を看取できる表象、とでも言うべきだろう。

たとえば、言語というものは人間にとってもっとも身近な記号であるということができる。
一つ一つの単語にはそれぞれの意味があって、通常のコミュニケーションでは言語を媒介にして感情や思考といった意味内容を伝達する。

あるいは、自然現象なども記号として機能する場合がある。
天気に関することわざには、動物の行動や天体の見え方を記号表現として、近い将来(場合によっては遠い将来)の気象状態という記号内容を看取する性質のものが多い。

もっといえば、交通標識や信号などは、何らかの行動の許可や禁止といった単純な記号内容を、絵や色などの組み合わせを記号表現として伝達するものである。

だから、ボディランゲージや表情などというものも記号であるし、動物が特定の感情や意思(警戒や親愛、要求など)を伝達するために発する鳴き声なども、記号ということができる。
赤ん坊が発する喃語は、意味内容を含んでいないので記号ではないというのが記号論上のおおむねの定義であるようだが、それは場合によるんじゃないかと思う。

さて。
以上おおむね記号という言葉の定義を示してみた。
では、記号はいかにして記号として機能するか。
別の言い方をすると、記号の意味内容とは何か。

端的に表現すると、記号の意味内容とは、すべて分節なのだという。
分節とは、同じものを同じものとして括る(同化)ことと、違うもの同士を区別(異化)することである。

たとえば、ここにグレープフルーツがあるとする。
グレープフルーツという単語を用いずにグレープフルーツを表現しようとすると、
「黄色い」「丸い」「果物」で、「柑橘類」に属する、ということになろう。
「」で括った部分が、グレープフルーツを構成する記号である。

夏みかんや八朔やザボンと区別するにはもう少し情報を収集する必要があるが、テニスボールやリンゴやバナナやミカンやレモンと区別するには、大体こんなもんでよかろう。

さらにたとえば、占いで「今日のラッキーカラーは黄色です」と言われた場合、身に着けるのはテニスボールでもレモンでもメタスのフィギュアぉぃぉぃでもよい。

一方、子供に「おなかすいたー」と言われたお母さんが、おやつに出すのはリンゴでもバナナでもよいが、テニスボールを出したらネグレクトになってしまう。

もうひとつ、死の床に伏した老人が、いまわの際に「グレープフルーツが食べたい」と言う、戦後のモノクロ映画のような場面を想像していただきたい。
このとき、連れ合いのおばあさんがグレープフルーツと言うものを知らず、黄色くて丸い柑橘類、と言うだけの情報で夏みかんを買ってきたら、非常にアイロニーにあふれた表現になるだろうが、老人は少し残念なのではないだろうか。


以上、何が言いたかったかと言うと、必要とされる分節の度合いに応じて、人間は記号を使い分けている、と言うことである。

投稿者 ushila : 2005年10月16日 02:12

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