« 2005年09月 | メイン | 2005年11月 »

2005年10月23日

すげーネーミングセンス。

http://takamatsu-fc.jp/name/

カマタマーレ讃岐(旧:FC高松)。
サカつくで、何かのシャレで付けたヤツがいそうなネーミングだ。

>また、チーム自体も讃岐うどんのように、ツルッと滑らかなパス回し、腰が強く、逆境にもめげない
>ねばりのあるチームになってもらいたいという願いも込められています。

この文章が物凄さに追い討ちをかけている。

とりあえず明日はなか卯で期間限定の釜玉うどんを食って帰ろう(笑)。

投稿者 ushila : 22:09 | コメント (0) | トラックバック

菊花賞

ディープインパクト強かったなー。
強いのはもともとわかってたが、1周目スタンド前で口割ってたから、相当スタミナ消耗してると思ったのに、向こう正面で息入れて、最後はきっちり差し切りだもんなあ。

いやいやいや。当分このコンビには逆らわないほうがいいですわ。ほんとの話。

投稿者 ushila : 19:39 | コメント (0) | トラックバック

2005年10月20日

どっから突っ込んでいいものか。

山田優自宅に空き巣

1)ふーん、400万円分も家においてあるんだー。
2)っていうか、もらい物が多いんだろうなー。
3)男ならそんなもん盗まずに●●を盗めっ!

さて、あなたはどれを選ぶ?(何の心理テストだよ)

投稿者 ushila : 21:27 | コメント (6) | トラックバック

長州力、現場監督復帰。

行きがかり上長州に対してはものすごく意地の悪い俺としては、もうそれだけで「えー」というトピックなのですが、言ってることがなおさら「えー」なわけで。

長州「頑張っている選手はどんどん上げていく。逆は、出場機会が減る。次のシリーズで使わない選手も出てくる。来年1月の東京ドーム大会に、半分の選手が出られなくなるかもしれない」。

……ギャグですか?
もしくは、この人には学習能力というものは無いのでしょうか。
あんたがいう「頑張ってる選手」というのは、自分の近くで自分が好む努力の仕方をしている選手のことでしょう。
それでどれだけの選手がスポイルされ、どれだけ新日本のプロレスがつまらなくなったのか、自覚していないのでしょうか。
もしくは、この人には学習能力というものは無いのでしょうか。


「選手同士の交流はなくなる。(他団体に)行って(新日本に)帰って、また行って、はなくなる」

団体離脱当時、猪木をくさすために「馬場さんの考えは正しかった」的なことを言っていたのが、ここにつながってくるのでしょうか。
全日本の鎖国政策が成功したのは、馬場さん自身とジャンボの存在と、強力な外人コネクションがあったからだと思うわけで。

チャンピオンさえ外部に依存しなければならない団体に、同じ成功があるとは到底思えないのですが、その辺どうよ?

投稿者 ushila : 21:07 | コメント (0) | トラックバック

よっしゃ光来た。

これでいろいろできるぜ。

いろいろってナニよ?

投稿者 ushila : 20:42 | コメント (2) | トラックバック

2005年10月16日

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論(2)記号と恣意

前項で見たように、必要とされる分節の度合いに応じて、記号を使い分けている。
言い換えれば、記号の選択はきわめて恣意的に行われている。

グレープフルーツの例では、わりと記号はまともに働いているのだが、これがもうちょっと複雑な内容の記号になると、話もそれにつれてややこしくなる。

たとえば、食品の産地詐称というニュースが、一時相次いで報じられたのは、記憶に新しい。
銘柄米、ブランド肉などといった「記号」が、正しく商品の内容と言う「意味」を示していない好例なのであるが、この場合それら記号が持つ意味内容は、供給側が消費者を誤誘導しようとする意図である。
(そんなもん食べてみればわかるじゃん、とか、値段が安すぎるからおかしい、とか、見分ける方法は確かにあるのだが、言語と言う記号は強力なのである)

偽ブランド品の横行や、いわゆるレッテリングなども、発信する側が受信する側を何らかの誤解に誘導しようとする意図の記号表現、と言うことができよう。

グレープフルーツと言う記号は基本的にそのもの以外を記号内容として持たないし、それ以外に誘導されても「これミカンじゃん」と言えたりするわけだが、女子高生のラルフのセーターが本物かとか、総理大臣は軍国主義者なのかとか言う話になると、検証は困難になる。


ブランドの話をもう少し続ける、というか、ブランド品はなぜブランド品として珍重されるのか、と言う話がしたい。
根源的には、デザインや機能、構造が優れているとか、そういう「他に比して優秀な性質」が、(広義の)ブランドの価値の裏づけになっていた(過去形)はずである。
価格が高いとか、生産数が少ないとかいうのは、本来それら「優秀な性質」を維持・確保するために結果として付帯する性質である。
しかし。デザインが旧態化したり、技術水準の全体的な底上げに伴って機能や構造が陳腐化したりすることは間々あるわけで、こうした場合に「ブランド」品は記号内容から遊離し、ただ高くて数が少ないという、工業製品としては劣った性質しか持っていないにもかかわらず、ブランド品だから、と言う理由で珍重されることになる。


じつはもう少し言いたいことがあるのだが、特に現代においては(と言う表現も確かかどうかわからないが)、記号表現と記号内容は遊離する場合がある、と言うことを、ここではまとめとしておきたい。

投稿者 ushila : 22:48 | コメント (0) | トラックバック

メタ萌え論、メタオタク論としての記号論。(1)記号とは何か。


実はメタという単語の意味すらきちんとわかっていないわけだが(苦笑)。

萌えという単語そのものの定義の曖昧さについては、かなり前から忸怩たる思いがあって、だから俺自身あまり萌えという単語を使用しないで来たわけである。

で、その辺のもやもやを解消するために、なんかいいツールはないかと考えているところで、ぶち当たったのが記号論とか記号学とか言われる学問体系であった。
というのが、大体この文章の始まりである。

記号論で言うところの「記号」とは何か、というと、意味を持つ表象、という定義になるだろうか。
厳密に言うと、人間が意味を看取できる表象、とでも言うべきだろう。

たとえば、言語というものは人間にとってもっとも身近な記号であるということができる。
一つ一つの単語にはそれぞれの意味があって、通常のコミュニケーションでは言語を媒介にして感情や思考といった意味内容を伝達する。

あるいは、自然現象なども記号として機能する場合がある。
天気に関することわざには、動物の行動や天体の見え方を記号表現として、近い将来(場合によっては遠い将来)の気象状態という記号内容を看取する性質のものが多い。

もっといえば、交通標識や信号などは、何らかの行動の許可や禁止といった単純な記号内容を、絵や色などの組み合わせを記号表現として伝達するものである。

だから、ボディランゲージや表情などというものも記号であるし、動物が特定の感情や意思(警戒や親愛、要求など)を伝達するために発する鳴き声なども、記号ということができる。
赤ん坊が発する喃語は、意味内容を含んでいないので記号ではないというのが記号論上のおおむねの定義であるようだが、それは場合によるんじゃないかと思う。

さて。
以上おおむね記号という言葉の定義を示してみた。
では、記号はいかにして記号として機能するか。
別の言い方をすると、記号の意味内容とは何か。

端的に表現すると、記号の意味内容とは、すべて分節なのだという。
分節とは、同じものを同じものとして括る(同化)ことと、違うもの同士を区別(異化)することである。

たとえば、ここにグレープフルーツがあるとする。
グレープフルーツという単語を用いずにグレープフルーツを表現しようとすると、
「黄色い」「丸い」「果物」で、「柑橘類」に属する、ということになろう。
「」で括った部分が、グレープフルーツを構成する記号である。

夏みかんや八朔やザボンと区別するにはもう少し情報を収集する必要があるが、テニスボールやリンゴやバナナやミカンやレモンと区別するには、大体こんなもんでよかろう。

さらにたとえば、占いで「今日のラッキーカラーは黄色です」と言われた場合、身に着けるのはテニスボールでもレモンでもメタスのフィギュアぉぃぉぃでもよい。

一方、子供に「おなかすいたー」と言われたお母さんが、おやつに出すのはリンゴでもバナナでもよいが、テニスボールを出したらネグレクトになってしまう。

もうひとつ、死の床に伏した老人が、いまわの際に「グレープフルーツが食べたい」と言う、戦後のモノクロ映画のような場面を想像していただきたい。
このとき、連れ合いのおばあさんがグレープフルーツと言うものを知らず、黄色くて丸い柑橘類、と言うだけの情報で夏みかんを買ってきたら、非常にアイロニーにあふれた表現になるだろうが、老人は少し残念なのではないだろうか。


以上、何が言いたかったかと言うと、必要とされる分節の度合いに応じて、人間は記号を使い分けている、と言うことである。

投稿者 ushila : 02:12 | コメント (0) | トラックバック